「I am a just poor boy」

ミャンマー西北部、ラカイン州の州都・シットウェから北に100キロ。バングラデシュとの国境にほど近い場所にロヒンギャ問題最大の争いが起こったマウンドーがあった。

シットウェからマウンドーへと続く道は固く閉ざされている。国際機関の職員を除いて、外国人が入ることは出来ない。

ここを見なければ、ロヒンギャ問題の実際を知ることは出来ないと思った。

ある朝、僕は決心して重い腰を上げた。バックパックから必要な荷物を抽出した。(カメラ、ノートブック、寝袋、少々の食糧、水等)

”南京虫ホステル”のロビーではオーナーである年老いた小男がテレビを見ていた。この男の頬には人生の辛苦を刻み込んだように、平行に皺が寄っている。男は一日の大体の時間をテレビの前で過ごしていた。見ているのはいつも「世界の格闘技」かなんかのアメリカ番組であった。K―1やキックボクシング、”相撲”も放映されていた。

「今日、チェックアウトします。カバンだけ数日間、置いていっても良いですか?」

「Yes」 を予期した質問だった。毎晩のようにロビーで一緒にテレビを見ていたので、なんとなく打ち解けたような気がしていた。小男から出た言葉は意外に思えた。

「ダメだ。そんなコトはやっていない」
「なんで? ここには長く泊まっているので信頼できるでしょう。ホテルの隅でも良いから置かせてください」
「ダメだ。」
意外なまでに強硬な態度だった。開いていると思っていた扉は、実は閉まっていた。
(なんでやねん。どこでも置けるところあるやんけ)

ホステルを出た。シャットアウトされたことがショックで、少し腹も立ってきた。そうすると南京虫を我慢したことや、現地人よりも高い宿泊料をせしめられていたことも思い出されてきた。溜飲を下げるために、ホステルの近くの行きつけになっていたジュース屋に入った。いつもの如く、この日もアボカドジュースを注文した。
出てきたアボカドジュースは熟れていなかったのか、青臭かった。熟れたアボカドのジュースは旨いのだが……

このジュース屋のおじさんは親切で、グラスの底が空になって、なお粘っていても頓着されなかった。外国人である僕とは言語上の隔たりがあるが、目が合うと微笑む。
ミャンマー人の特徴なのだろうか、我慢強くて実直そうな人がこの国には多かった。仏教徒であることも関係しているのだろう。
「カバン置かせてもらえないですか?」
ダメもとで頼んでみるとあっさり「良いよ。置いていきなさい」と柔和な笑顔を見せた。

AM9時。町の商店や飲食店のシャッターが上がる。僕はバイクを借りるためにレンタルショップを探し歩いた。レンタサイクルの店は多くあるのだが、バイクとなるとほとんどない。人を伝って、個人のバイクタクシーの運転手を紹介された。
「バイクを貸してもらえませんか?」
「どこまで行きたいんだ。乗せていってあげるよ」
「いえ、バイクをお借りしたいのです。僕が運転していきます」
もしマウンドーに行くことが出来れば数日間は滞在することになる。フレキシブルな行動のためには自分で運転していきたかった。運転手は考えるように黙り込んだあと、僕に尋ねた。
「ところで君はどこへ行きたいんだ?」
「マウンドーです」
そう言うと、運転手と周りの同業者が顔を見合わせて笑った。首を横に振りながらフレミングの法則をこめかみにあてた。
「君が死ぬと、僕のバイクは帰ってこないじゃないか」

他を当たってみたが、バイクを貸してくれるという人はいなかった。ある場所では中国人のところに連れて行かれた。僕のことを中国人だと思って、同胞に説得させようとしたらしい。なんと言っているのかは全く分からなかった。かくして僕はバイクによるマウンドー行きを諦めさせられた。

シットウェからマウンドーまではバスも出ていない。僕に残された「The Last Resort」は船だった。シットウェからブティダウンという町まで定期船が出ている。ブティダウンからマウンドーまではおよそ10キロ。そこまで行けばどうにかなるかもしれない。船の出港日は翌朝だった。
早速、僕は船のチケットを取りに町中にある船会社のオフィスを訪れた。
「ブティダウンまで行くチケットをください」
従業員は困惑の表情を浮かべてから言った。
「”Permission”はありますか?」
持っていなかった。外国人はやはり許可なしではシットウェよりも先に行けないのだ。

教えられた”Immigrattion Office”は郊外にあった。日本の田舎の小学校を思わせる建物に入ると、制服を着た審査官が気だるそう書類の山に目を通していた。大型ファンの扇風機がガタガタと震えていた。

「マウンドーに行くために許可を貰いに来ました」
僕が提示したパスポートとビザを奪うように手にとって、目を通した。
「NO」
これだけだった。一瞬にして突き返された。万策尽きる。

再び町に戻った。虚脱感が押し寄せてきて、路傍の石段に座り込んだ。打ちのめされた気がした。悔しかった。マウンドーに行けなかったことに対してではなかった。自分がしだいに断られることを予期して、「NO」を待っていたことに気づいたからだった。こんなにも近くに来て、なお怖かったのだ。自分が危険にさらされることが。
この旅は自分にとって試金石のようなものだった。そういう方向で生きていくためには、一線を超える勇気がいるだろう。自分の無鉄砲さも結局のところ、安全を担保された上でのものでしかなかった。
バンコクで会った日本人のMさんが教えてくれた「The Boxer」という言葉に象徴的な一文があった。
「I am just poor boy」
僕はPoor boy だった。自分の力とは結局のところ、そんなものだったのだ。打ちのめされて、頬には涙が流れた。喧騒とした町の中で僕だけがContrastの側にいた。
「The Boxer」が頭の中で流れた。

「旅を終わらせよう」
そう僕は決めた。

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シットウェのロヒンギャ③

ロヒンギャの地域に挟まれるようにシットウェ大学があった。ムスリム地域を海に例えるならば、孤島のようにそびえ立っている。

日本の大学と変わらない、華やかなキャンパスライフが、東南アジア最大の人道危機に隣して存在していた。ただロヒンギャは大学で学ぶことはできない。

シットウェ大学に通う20歳の学生にそのことを尋ねた。

「ロヒンギャと一緒には学ばないの?」

彼の答えはこうだった。

「ロヒンギャは危険だから。仕方ないと思うよ」

嘆息しか出なかった。現状は厳しいのだ。仏教徒とロヒンギャの間には精神的にも懸隔があった。憎悪と危険意識がベルリンの壁のように高く。

かつてはロヒンギャも仏教徒も同じ学舎で学んでいた。ロヒンギャの村で会った40過ぎの男性は、大学在学中に学校を追い出されたという。

東西へと続く道をさらに進むと、10mほどの幅の川があった。訪れた時は乾季だったので、ほとんど水量はなかった。

橋は工事中だったので迂回して、速成の橋を使わなければならなかった。

「Made in Japan 」と、荷車を引く男が工事中の橋を指差して言った。日本のNGO が橋を作っているということなのだろうか?

真偽はわからないが、完成すれば雨季の豪雨にも流されない立派な橋になるだろう。

橋を渡った先にはロヒンギャの大きな町があった。マーケットまであって、そこには宝石店や飲食店が並んでいる。

報道のいう人口12万人は大袈裟だと思っていたが、この分では本当にそれ位の人が住んでいるのかもしれない。

マーケットを歩いていると後方から怒号を浴びせられた。言葉は理解出来ないが「出ていけ」という意味なのだと推測する。

声の方向を見ると、怒号を放った男の顔があった。僕と目が合うと男は途端に表情を和らげて言った。

「Sorry, you are foreigner 」

男は肌の色が薄い僕を仏教徒だと思ったのかもしれない。

道を歩いていると商店を営む1人の男性に呼び止められた。

「ジャーナリストか?」

「いいや。日本の学生だ」

「ちょっと休憩していけよ」と言って家の中に歓待してくれた。

それから男は「腹が減っていないか?」と、パンやソーダー水を出してくれた。

「なぜ、こんなにもてなしてくれるのだろう?」

怪訝に思っていると、男性は堰を切ったように話を始めた。政府によって弾圧され、苦しい生活を強いられていること。衝突で死んだ人のこと。

「昔は仏教徒もムスリムも一緒に暮らしていたんだ。なぜ、僕たちはいがみ合わなければならないんだ」

彼は「Why」を繰り返した。人間の争いやこの世の不幸の根源に彼は「Why」を投げているのだろう。

「日本人に僕たちの現状を伝えてくれ。日本政府がミャンマー政府にプレッシャーをかけてほしい」

「それは理想だけれど……」

ただの学生である僕にそんな力などない。目の前の男性が熱心に語れば語るほど、僕は自分の存在の矮小さに赤面する。

店を出てさらに奥へと進む。土埃の立つグラウンドでは子どもたちがサッカーボールを追いかけていた。

夕暮れが迫っている。夜になる前には帰らないといけない。ここで断念して帰ることにした。

帰り際、夜闇に紛れてミャンマー警察の施設を撮っているところを、見つかった。

「止まれ」という意味のことを叫んでいる。

逃げて発砲されるのは恐ろしいので、大人しく警告に従う。僕を囲んだ4人の警察官はいずれと若かった。

「カメラを見せろ」と半分、英語。半分、ミャンマー語で言ってくる。

「分からない。英語で言ってくれ」と強気で出てみる。5分ほど拒み続けていると、諦めたのか「行け」と追い払われた。

翌日、もう一度、ロヒンギャの地域へ入ろうとした。前日と同じように、検問所を自転車で渡ろうとすると、止められた。

「ここは入れない地域だ」

ロヒンギャ地域は再び「Restricted Area」になってしまった。

シットウェのロヒンギャ②

ラカイン州の州都・シットウェの郊外にロヒンギャの地域があるという。報道によると、2012年以降12万人が暮らしている。

町中でその場所について、尋ね歩いた。

携帯ショップで女性店員に案内を請うた。

「ロヒンギャの村はどこにあるのですか?」

続きを読む: シットウェのロヒンギャ②

生まれ出づる苦しみ

ミャウーでは3日間過ごした。パゴダ(仏塔)が立ち並ぶ美しい古都に後ろ髪を引かれるような気持ちもあったが、次の目的地・シットウェへと向かうことにした。

ラカイン州の州都・シットウェ。この町には12万人のロヒンギャがいると報道されていた。

続きを読む: 生まれ出づる苦しみ

ロヒンギャの悲しみ ③

「ロヒンギャの悲しみ ②」

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翌日、再びロヒンギャの村を訪れた。レストランの前では、ガイドのTさんが言っていたように、結婚式がおこわれていた。

ただ宗教的な服装で身を包んでいる人たちの中に、Tシャツで入る勇気はなかった。また部外者の僕が神聖な式を汚したくもなかった。

Tさんの家に行くと、彼は日向の軒先で寝転んでいた。

「ご飯を食べて行かないか?」と誘ってくれたので、呼ばれることにした。

Tさんは妻と3人の子どもとの5人暮らしだった。長女は8才で、長男が5歳、次男が2歳だった。

この2歳の子どもがペタペタと歩き回っていた。見えるものをなんでも触る。ニワトリもオモチャにされて逃げ回っていた。

出してくれたのは鶏肉の揚げモノとご飯だった。ご飯は鍋で炊く。ニワトリは飼っているモノをしめてくれた。

僕にはミネラルウォーターを出してくれた。おそらくミネラルウォーターは来客用のモノだった。普段は井戸から水を汲んでいるのだと思う。

Tさんにお礼を言って、家を出た。村を散策していると、例によって子どもたちが付いてくる。

僕の手を引いて、自分の学校の先生だとか家族を紹介してくる。自由に歩きたいが、そうはさせてくれない。

中年男性が揚げ僕を引き留めた。
「さあマイフレンド、僕の家に入れ」
言われるがまま家の軒先の椅子に座ると、男性の兄弟だという2人も現れて僕を取り囲む。そうして缶ジュースとフルーツをくれる。
「僕たちには日本人の友達がいるんだ。彼を知っているかい?」
日本の人口は1億2000万人もいるのだから知っているはずがない。この村にはかつて日本人のカメラマンが来たそうだ。そのカメラマンは過去3,4回にわたって村に来ているのだと。おじさんはFacebookで連絡を取ってくれた。
「村のみなさんは元気ですか? 僕が最後に訪れた時は緊張状態が続いていて取材も困難だったのですが」
「今はだいぶ平穏な状況にあるようです。警察官は一人、いますが僕を見ても何も言いません」

僕にとっては意外なことであったが、水道もなく電気もおそらく自家発電のこの村で携帯電話を持っている人が一定数、存在していた。そうしてこの陸の孤島は外部との細い連鎖を保っているのだった。
次にこの3人の兄弟に電話を繋いでもらった。その電話の先から日本語が聞こえたので驚いた。
「こんにちは。日本人の方ですか?僕は今、前橋に住んでいて」
事情を聞いてみると、日本で暮らしながら難民申請をしているのだった。ただ12年間、その難民申請は下りていない。
日本の難民申請の基準は厳しい。2016年は10901人の申請に対して難民と認められたのは28人だけだった。もちろん難民問題を単純な感情論で考えることはできない。偽装難民などの問題も内含している。
ただ本当に救われるべきであったには28人だけだったのか。法律学小辞典(有斐閣)を引いてみると難民の定義にはこうある。
「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられないもの又は受けることを望まないもの及びこれらの結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、その国に帰ることができないもの又は帰ることを望まないもの」
法律用語はどうして一文がこう長いのだろう。志賀直哉を見習ってほしい。難民と認められるのは非常に困難である。また直接、この方からお話を聞いてみたい。
家の2階に招かれた。「ごはんを食べていけ」ということである。
「1時間前にご飯を食べたので満腹だよ」と言っても「No problem」である。

かなり豪勢な食事を出してくれた。とても全てを食べきることはできない。残してしまったことを申し訳なく思った。

下に行くと子どもが果物を筒に入れてすりつぶしていた。興味深げにその様子を覗いていると「食べろ」と僕にくれた。酸味の強いいちごのようなものだった。
おじさんと子どもたちに「ありがとう」と伝えて家を出た。子どもたちは付いてきた。子どもたちの数が雪だるまの膨らんでように瞬く間に20人ほどになる。
「See you again」と手を振って僕は村から町に続く道を行く。子どもたちが駆け出して僕を追いかけようとする。

すると大人が真剣な顔つきで子どもたちを制止する。ロヒンギャは村から出ることができないのだ。振り向くとまだ子どもたちがまだ手を振っていた。僕には村がかすんで見えた。

第23話 「螢川」

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ロヒンギャの悲しみ ②

先にこちらから読んでいただきたいです。

「ロヒンギャの悲しみ ①」

https://dokushoplacecom.wordpress.com/2018/05/04/333/?preview=true

ロヒンギャの村には菩提樹のような枝先が広がった木があった。

干し草が積まれて大玉転がしの球のようになっていた。クロード・モネの「積みわら」を連想した。

芝の浅い大地では牛が時間の流れをせきとめるようにのらりと歩いていた。

南へと流れる黄濁した川では「Fish man」が魚を獲っていた。ニワトリが「ケッコケッコ」と足元をつついた。

この村の生活はほとんど自給自足である。わずかに薬や個包装のミルクコーヒーなどが外部から入ってきていたが、ほとんど文明から取り残された生活である。

ガイドのTさんは親戚が営んでいるというレストランへと連れていってくれた。レストランといっても通常、日本人が想像するようなモノではない。

店の前では男たちが木を編んで、何かを忙しそうに作っていた。

「あれは結婚式の舞台だよ。明日、この村の少女と青年が結婚するんだ」

祝宴に向けた準備をする村の人々の顔は晴れやかだった。誰もが労働の汗を流すことを嬉々としていた。

「それじゃあ僕はここで失礼するよ」とTさんが帰っていった。代わりに店の外から不思議そうに異邦人を見ていた子どもたちが入ってきた。興味津々といった様子で僕を取り囲む。

それを見た店の主人はそさくさと子どもたちを追いやってしまった。

元から店にいた一人の少年と共にご飯を食べた。16歳だという彼は思春期の相克を目の奥に含んでいた。

日々の生活について尋ねると、堰を切ったように話を始めた。
「僕が持っているシャツはこの一枚さ。なぜ僕たちはこんな生活を余儀なくされるのか?」
時折、のぞかせる意志の強さが僕をドキリとさせた。彼の虹彩はどんな世界を映し続けるのだろうか?

食事を終えると、キンマを勧められた。キンマとは東南アジアの嗜好品である。町に出ると、キンマの屋台があるほど暮らしに根付いている。

キンマという植物の葉に石炭を塗って、砕いた木を挟んでいる。それを噛むと、独特の風味がする。

最初は「なんやこれ」と吐き出してしまったが、だんだんとクセになる。キンマを噛むと、葉が真っ赤になる。

唾も真っ赤である。東南アジアの路上で血点のようなモノが見られるが、それはキンマを噛んだ人が吐く唾なのである。

村には幾本もの細い路地がつたっていた。路地沿いに家々が立ち並ぶ。

こどもたちはやはり長期休暇中だからであろう。店先でたまったり、走り回って遊んでいたりする。

のどかな村だった。世界情勢の苦節の上にあることを忘れてしまうくらい。

「ロヒンギャの悲しみ ③」

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ロヒンギャの悲しみ①

地平線が見えるくらい、一本道が続いていた。汗が頬を伝い、バックが肩にくいこむ。

「本当にこの道で合っているのだろうか?」

ミャウーのホステルで書いてもらった地図によれば、この道沿いにロヒンギャの村があるはずだった

「仏教徒が人口の大半を占めるミャンマーで、イスラム教を信仰し、迫害されているロヒンギャという存在がある」

僕がロヒンギャについて知ったきっかけは日本での新聞報道だった。

「報道の向こう側にいきたい」

若い衝動に動かされてミャンマーまで来た。東南アジア5か国を回る2ヶ月の旅の最大の目的はロヒンギャに会うことだった。

バイクや車が横を通る度に顔を隠す。警察官に止められると面倒なことになるかもしれない。

前方に村が見えてきた。道路の両端にずらりと民家が並んでいる。村に足を踏み入れると、雑貨屋で溜まっていた子ども達が寄ってきた。

手元のカメラを見て「写真を撮れ」とジェスチャーで伝えてくる。

写真を撮ると「ついてこい」とばかりに僕の手を引いた。雑貨屋の店先に座る老婆が微笑ましげにその様子を見ていた。

ソンコ帽のようなものを被っている人を見た時にやっと気がついた。

「ここがロヒンギャの村だ」と。

中年男の前に連れてこられた。

「My teacherだ」と子どもが紹介してくれた。彼は村の教師で英語を話せるので、ガイドもしているという。名前は仮にTさんとしておく。

初めに村の学校を見せてくれた。残念ながら訪れた時期は長期休暇中で生徒はいなかった。

5歳から12歳までの子ども達が学んでいる。しかし、この村には高校などの上級学校がない。

「卒業したら生徒たちは町の学校に行くのか?」

そう尋ねると、Tさんは首を振った。

「僕たちはこの村から出ることができないんだ」

ロヒンギャの人々の行動はミャンマー政府によって、著しく制限されている。

一番近い町であるミャウーまでは10キロもないが、行くことは「不可能」である。小さな村で彼らは世界から隔離されている。教育を受けたくても、受けられない現実がある。

それだけではない。

「医療も足りないんだ」

そう彼は口にした。

薬局のようなところはあるが病院はない。行動が制限されているので、罹患しても満足な治療を受けることができない。

次にモスクへと連れていってくれた。村には見せてもらっただけで3ヶ所のモスクがあった。

14世紀からあるというモスク。台座にはコーランが置いてある

その中でも一番、古いモスクは700年前、すなわち14世紀に作られたという。一部の柱などを除いて、改築されているので真偽は判断できなかった。

ロヒンギャとミャンマー政府の対立の原因の1つに歴史認識という点がある。

「僕はこの村で生まれた。両親も、祖父母もずっとこの地で暮らしてきたんだ」とTさんは言った。

ラカイン州と呼ばれるミャンマー西北部の地域には15世紀から18世紀にかけて「アラカン王国」という独立国が存在した。ムスリムに融和的な王の元、仏教徒とムスリムが共存していたという。その後、ムスリム(ロヒンギャ)と仏教徒(ラカイン人)の間で軋轢が生じた。

アジア・太平洋戦争中には対立に乗じた日英の代理戦争が行われた。現代に至って、なお対立は顕在化している。

ミャンマー政府はロヒンギャを「不法移民」だとしている。ラカイン人(仏教徒)はロヒンギャをバングラデシュから来た人という意味で「バングラ」と呼んでいる。

ラカイン州に住むロヒンギャの数は100万人ほどと推定される。彼らは、移動の自由だけでなく、国籍さえ与えられていない。ロヒンギャはこの国において「ミャンマー国民」ですら無いのだ。

2017年8月の衝突以後、政府治安部隊の掃討作戦によってロヒンギャ側に多数の死者が発生した。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のHPによると、この迫害に耐えかねた67万人を越えるロヒンギャが故郷を離れ、バングラデシュへ逃れたという。

ただバングラデシュに逃れても安泰の生活があるわけではない。そこでも劣悪な環境下におかれている。ミャンマーへの帰還もほとんど進んでいない。

ため池のそばには赤十字が掲げられていた

モスクの隣にはため池があった。生活用水はこの池や点在している井戸からくまれている。

村全体の人口は6500人ほどだが、子どもの数はかなりのウエイトを占めている

写真を撮ると、駆け寄ってくる。手を出して何かをねだってくる。最初は「カメラをよこせ」ということかと思った。

違った。子どもたちは「写真をくれ」と言っているのだった。

「彼らは自分の写っている写真を持っていないのではないか」と思った。

日本で暮らす僕は実家に帰れば、幼少期を写したアルバムがある。僕には当然のように思えることさえ、外界から遮断されたこの村では当然ではないのだ。

ふと子どもたちの未来に思いを巡らせた。一生、この狭い村で暮らしていくのだろうか? いや情勢を鑑みると、現在の生活さえ奪われかねない。

「国籍を有しないということはいかような苦しみか」

バンコクで会ったカメラマンの瀬戸さんがそのことを教えてくれた。

https://dokushoplacecom.wordpress.com/2018/02/05/サワディ、タイランド-2/?preview=true

この子どもちも瀬戸さんのように「帰属意識」の欠落という苦しみを背負って生きていくのだろうか?

国籍問題が象徴する、ミャンマーにおけるロヒンギャの地位。価値観が万人で異なるにしても、常に生活が壊される危機にあることは「オカシイ」であろう。 「子どもたちが、どんな責任を有しているのか?」

どうしても僕にはこの既存の社会が理解できなかった。

僕のカメラはポラロイドではないので、すぐには現像できない。

「ゴメンね。現像したらきっと写真を送るよ」と誓った。きっと言葉の意味は理解出来ていないだろうが、子どもたちは了解してくれた。

「ねぇ僕たちも写真を撮ってよ」

子どもの笑顔は美しかった。純粋だった。だからこそ、ロヒンギャの置かれている現状について、釈然としない悲しみが残った。

「ロヒンギャの悲しみ ②」へ。

https://dokushoplacecom.wordpress.com/2018/05/06/222/?preview=true

2018年5月5日に更新予定です。

美しきミャウーの町

「地面が揺れている。地震だろうか」

それで目を覚ましたが、地震ではなかった。往来を通るトゥクトゥクの振動が、道路脇で眠る僕に地面を通じて、響いていたのだった。

「ヘッシュン、ヘクシュン」とくしゃみを6度、繰り返した。砂ぼこりが僕の身体中の気管を犯していた。

くしゃみをしている間に頭がハッキリとしてきた。昨日の夜中、僕はラカイン州北部の町・ミャウー(Mrauk U )に着いた。疲れ果てていた僕は、そのまま地面で寝てしまっていたのだった。

慌てて、身の回りを見る。

「荷物、盗まれてへんやろか」

大丈夫だった。まだ空は薄暗い。時計の短針は5時を示している。

「なんだ2時間しか寝ていなかったのか」

だんだんと往来に人が増えてきた。人々が奇妙なモノを見る目を投げてくる。立ち上がって、服の砂を払い、人々の列に付いていくと、市場があった。野菜や果物、川魚が並べられていた。

そこが町の中心なのだろう。

「小さな町なんだな」と思った。

ホステルの前に戻ると、シャッターが開いていた。昨日は結果的に宿泊予約を反故にしてしまったので、申し訳なく思っていた。

そのことを詫びて、場合によっては昨日の宿泊代を代償しようと思った。

そうして「今日こそはちゃんとしたホステルに泊まるのだ」とロビーに入った。小学生に見える少年がロビーを預かっていた。僕に気がつくと、奥に入り、ホステルのオーナーである父親を連れてきた。

「今日、泊まりたいのですが」

僕を一瞥してから、おっさんは威厳たかに言った。

「ウチは外国人を泊めないポリシーなので。どうぞお引き取りを」

「そんな……。昨日、予約していましたよ。それにほら」と僕はロビーの上の時計を示した。「Paris. New York…」と世界中の都市の時間が示されている。外国人向けのホステルでよく見るタイプの時計だ。ちゃんと「Tokyo」もある。

「ダメなものはダメだ。泊めない。帰れ」

そこまで言われて、宿泊するのも腹が立つ。他の宿を探すことにした。

朝が早すぎたこと、それから僕の服が砂だらけで汚かったことを嫌われたのだろう。

町中に出て、目についたホステルに片っ端から入るが、どこに行っても「Local people only 」と返ってくる。本当に「外国人お断り」のホステルもあるようだ。後に聞いた話では小さなホステルには外国人を泊めてはいけないそうだ。

警察から「外国人を泊めたのか」とお咎めを食らうこともあるらしい。

人に聞き回り、着いたホステルは一泊25000チャット(2000円ほど)だった。

「アカン。高すぎる」

ミャンマーのホステルはどうしてかくも高いのか?

やっとのことで一軒のホステルにたどり着いた。恰幅の良い、タンクトップを着たおじさんがオーナーだった。

「今日、泊まれますか?」と聞くと、人懐っこい、それだけで人柄の分かる笑顔で「OK」と言った。

部屋はシングルルームでシャワーやトイレも付いていた。値段は10000チャット(800円ほど)だった。試しに値下げを頼むと「実はいくらが相場か知らないんだ。いくらで泊まりたい?」と聞いてきた。

「それなら8000チャット(640円ほど)で」と言うと、その値段になった。

シャワーで砂を落とし、服を手洗いして干した。それからベッドで横になった。疲労がその代償に心地よい睡眠をくれた。

起きると日はすっかり高くなっていた。夜明け過ぎから眠ったので、およそ5時間、寝ていた。

明晰になってくる意識の中で、ほどよく体内に漂う倦怠感が僕に思考させた。

「ロヒンギャに会えるだろうか?もし会えたら、どんな風に接すればよいだろうか?」

僕がしようとしていることは、他人から見ると「ジャーナリスト気取りのバカな大学生の自己満足」である。

「軽薄な冒険心や、自分のヒロイズムを満たすために来たのではない」

またカンボジアなどで見た日本人のように「他人にたいして卑屈な、哀れみの目を向ける」

それだけはしたくなかった。僕は未熟である。ただ目の前の人を、あるフィルターを通すのではなく、自分の目で見て、話をしたいと思った。

ここからは危険を伴うコトもあるだろう。僕はこの国では当然ながら「外国人」である。海外において、警察は守ってくれる存在ではないのだとプノンペンで思い知らされた。

ことにミャンマーである。

「ランボー 最後の戦場」という映画がある。シルヴェスター・スタローン扮するランボーが、少数の傭兵を引き連れて、ミャンマー軍の一個中隊と戦うというハチャメチャなストーリーである。映画の中で、少数民族に対するミャンマー軍の暴虐無人ぶりが徹底して描かれている。もちろんアメリカ映画として脚色は加わっているのだろうが「火のないところに煙は立たない」

ロヒンギャ問題はミャンマー政府にとって、極めて不都合な部分である。ここからの行動は慎重を期する。

腹が減ったので、部屋を出た。ホステルのおじさんが「起きたのか。どこに行くんだい」という目を向けてきた。

「町でご飯を食べてくるよ」

ホステルの横の商店で買ったジャムパンを片手に町へ出た。外国人がいない静かな町だった。外国人が珍しいのだろう、屋台などでも興味を持って接しられた。

ミャウーは古都だった。かつて存在したアラカン王国の首都として、15世紀から300年以上、栄えたのだった。

バイクタクシーの運転手も「ここ(ラカイン)は1つの国だったんだよ」と言っていた。

ミャウーにはあちこちにパゴダ(仏塔)があった。夕暮れ時に小高い丘に登ると、パゴダが夕日に照らされて美しかった。「外国人観光客も居ない、こんな美しい町が残っていたのか」と感動した。

交通の便がよくなれば、観光客で溢れかえるのだろう。そうならないで欲しい。

ただ僕の主たる目的は観光ではない。ここからの旅はそれまでのモノとは違う意味を持ってくるだろう。

翌日に備えて、目一杯夕食を食べ、早めに寝た。

第22話 「ロヒンギャの悲しみ ①」

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北へ、北へ ②

あらすじ

ロヒンギャの村を目指す僕はひたすら北へと行く。道は荒れていて、バスも揺れる。ヤンゴンから1日かけて、海辺の町・ナポリに来ていた。

レストランのおじさんが予約してくれたバスは朝の11時に出るモノだった。思いの外、早くに起きてしまった僕は海辺を散歩して時間を潰した。一人の白人女性が砂浜にマットを敷いて、ヨガをしていた。その動きが面白かったので、マネをしていると怪訝な目を向けられた。

予定の11時になってもバスは来ない。バックパックを玄関前に置いて、子どもと遊んでいた。

子どもが頬につけているのは「タナカ」という化粧品だ。樹木をすりつぶして、水と合わせペースト状にしたものである。ミャンマーではどこでもタナカを見ることができる。女も男も年寄りも子どももタナカをつけている。日本人が連想する「田中」とどのような関係にあるかは知らない。

タナカは日焼け防止に効果があるそうだ。日本の淑女方もどうだろうか?

やっとのことでバスが来た。バスといってもこの日のそれは、20人くらい乗りの小型バスだった。

通路にもプラスチック椅子を並べて、限界まで乗客を乗せる。ぎゅうぎゅう詰めになったところをクーラーで冷やす。ちらし寿司になった気分である。

この日は平地を行くので、バスは揺れないと思っていたが、見事に裏切られた。

バスはほどなく「稲葉ジャンプ」を始めた。車酔いに苦しみながら幼時にテレビで見た、札幌ドームの景色が脳裏に映った。

休憩地点の度に草影に走った。現地の人も同じように苦しんでいた。胃薬代わりにコカコーラを飲んだ。

車酔いに加えて、座席も悪かった。座席下の燃料タンクが膝くらいまであったので、常に体育座りのような体勢を余儀なくされた。足は伸ばせず、たまに立とうとするのだが、天井が低いので頭をぶつける。

無理な体勢のせいで、積年の膝痛だけでなく、腰や首も痛む。この苦しみを紛らわせようと、下唇を噛んでいたら血が出た。

おまけに腹が痛くなってきた。バスが止まるのは4.5時間に一回である。こんな絶望的な気持ちになるのは、中学生の時に野球チームで真夏下に半日間、正座させられ続けた記憶以来である。

何を好き好んで、こんな辺鄙な所に来てしまったのか。しだいに日が暮れてくる。バスはまだまだ着かない。いつ着くのか皆目、見当がつかない。苦しみは続く。無の境地を目指すしかない。

「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、ありがたやありがたや」

そんなことを思っていると、本当にスピーカーから念仏が流れてきた。さすがは仏教国である。

道はいっそう細くなる。街灯もほとんど無いので、車のヘッドライトだけが頼りである。なんだかバスが左右に揺れている。運転手が半寝で運転をしているのだろうか。

そうなっても仕方がない。なんせこの運転手は15時間、ハンドルを握り続けているのだから。衣笠祥雄もおどろきの鉄人ぶりである。

夜中2時、いきなりバスが止まり、降ろされた。

「ミャウー(Mrauk U )に着いたぞ」

「ホンマかいな。こんなど田舎なんけ?」

他に降りる乗客はいない。バックパックと僕は道端に捨てられてしまった。

どうにか予約をしていたホステルの前に着いた。確かにそのホステルで合っているようだが、門は硬く閉められている。午前2時を過ぎていたので、まあ当然だろう。

「Excuse me 」と声が枯れるくらいまで叫び続けたが、門は開かない。

2階から煌々と光が漏れていて、赤ん坊がハイハイをしているのが見えた。ホステルのオーナーである両親は寝てしまったのだろう。

仕方がないので諦めて、道路脇に座り込んだ。しばらく本を読んでいたが、15時間のバス旅は相当、体にこたえていた。道路上であるが、寝袋を敷いて寝転んだ。隣の公園に野犬の集団がいた。その遠吠えに恐れを抱きながら、だんだんと意識が遠のいていくのを感じた。

第21話 「美しきミャウーの町」

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