螢川

ミャウーはほとんど外国人のいない町である。1日目の夜にレストランで食事をする白人カップルと会ったが、それだけであった。2ヶ月の旅中でこんなに現地の人しかいない町は初めてだった。

この町で日本人と邂逅した。

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ロヒンギャの悲しみ ③

「ロヒンギャの悲しみ ②」

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翌日、再びロヒンギャの村を訪れた。レストランの前では、ガイドのTさんが言っていたように、結婚式がおこわれていた。

ただ宗教的な服装で身を包んでいる人たちの中に、Tシャツで入る勇気はなかった。また部外者の僕が神聖な式を汚したくもなかった。

Tさんの家に行くと、彼は日向の軒先で寝転んでいた。

「ご飯を食べて行かないか?」と誘ってくれたので、呼ばれることにした。

Tさんは妻と3人の子どもとの5人暮らしだった。長女は8才で、長男が5歳、次男が2歳だった。

この2歳の子どもがペタペタと歩き回っていた。見えるものをなんでも触る。ニワトリもオモチャにされて逃げ回っていた。

出してくれたのは鶏肉の揚げモノとご飯だった。ご飯は鍋で炊く。ニワトリは飼っているモノをしめてくれた。

僕にはミネラルウォーターを出してくれた。おそらくミネラルウォーターは来客用のモノだった。普段は井戸から水を汲んでいるのだと思う。

Tさんにお礼を言って、家を出た。村を散策していると、例によって子どもたちが付いてくる。

僕の手を引いて、自分の学校の先生だとか家族を紹介してくる。自由に歩きたいが、そうはさせてくれない。

中年男性が揚げ僕を引き留めた。
「さあマイフレンド、僕の家に入れ」
言われるがまま家の軒先の椅子に座ると、男性の兄弟だという2人も現れて僕を取り囲む。そうして缶ジュースとフルーツをくれる。
「僕たちには日本人の友達がいるんだ。彼を知っているかい?」
日本の人口は1億2000万人もいるのだから知っているはずがない。この村にはかつて日本人のカメラマンが来たそうだ。そのカメラマンは過去3,4回にわたって村に来ているのだと。おじさんはFacebookで連絡を取ってくれた。
「村のみなさんは元気ですか? 僕が最後に訪れた時は緊張状態が続いていて取材も困難だったのですが」
「今はだいぶ平穏な状況にあるようです。警察官は一人、いますが僕を見ても何も言いません」

僕にとっては意外なことであったが、水道もなく電気もおそらく自家発電のこの村で携帯電話を持っている人が一定数、存在していた。そうしてこの陸の孤島は外部との細い連鎖を保っているのだった。
次にこの3人の兄弟に電話を繋いでもらった。その電話の先から日本語が聞こえたので驚いた。
「こんにちは。日本人の方ですか?僕は今、前橋に住んでいて」
事情を聞いてみると、日本で暮らしながら難民申請をしているのだった。ただ12年間、その難民申請は下りていない。
日本の難民申請の基準は厳しい。2016年は10901人の申請に対して難民と認められたのは28人だけだった。もちろん難民問題を単純な感情論で考えることはできない。偽装難民などの問題も内含している。
ただ本当に救われるべきであったには28人だけだったのか。法律学小辞典(有斐閣)を引いてみると難民の定義にはこうある。
「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられないもの又は受けることを望まないもの及びこれらの結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、その国に帰ることができないもの又は帰ることを望まないもの」
法律用語はどうして一文がこう長いのだろう。志賀直哉を見習ってほしい。難民と認められるのは非常に困難である。また直接、この方からお話を聞いてみたい。
家の2階に招かれた。「ごはんを食べていけ」ということである。
「1時間前にご飯を食べたので満腹だよ」と言っても「No problem」である。

かなり豪勢な食事を出してくれた。とても全てを食べきることはできない。残してしまったことを申し訳なく思った。

下に行くと子どもが果物を筒に入れてすりつぶしていた。興味深げにその様子を覗いていると「食べろ」と僕にくれた。酸味の強いいちごのようなものだった。
おじさんと子どもたちに「ありがとう」と伝えて家を出た。子どもたちは付いてきた。子どもたちの数が雪だるまの膨らんでように瞬く間に20人ほどになる。
「See you again」と手を振って僕は村から町に続く道を行く。子どもたちが駆け出して僕を追いかけようとする。

すると大人が真剣な顔つきで子どもたちを制止する。ロヒンギャは村から出ることができないのだ。振り向くとまだ子どもたちがまだ手を振っていた。僕には村がかすんで見えた。

第23話 「螢川」

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ロヒンギャの悲しみ ②

先にこちらから読んでいただきたいです。

「ロヒンギャの悲しみ ①」

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ロヒンギャの村には菩提樹のような枝先が広がった木があった。

干し草が積まれて大玉転がしの球のようになっていた。クロード・モネの「積みわら」を連想した。

芝の浅い大地では牛が時間の流れをせきとめるようにのらりと歩いていた。

南へと流れる黄濁した川では「Fish man」が魚を獲っていた。ニワトリが「ケッコケッコ」と足元をつついた。

この村の生活はほとんど自給自足である。わずかに薬や個包装のミルクコーヒーなどが外部から入ってきていたが、ほとんど文明から取り残された生活である。

ガイドのTさんは親戚が営んでいるというレストランへと連れていってくれた。レストランといっても通常、日本人が想像するようなモノではない。

店の前では男たちが木を編んで、何かを忙しそうに作っていた。

「あれは結婚式の舞台だよ。明日、この村の少女と青年が結婚するんだ」

祝宴に向けた準備をする村の人々の顔は晴れやかだった。誰もが労働の汗を流すことを嬉々としていた。

「それじゃあ僕はここで失礼するよ」とTさんが帰っていった。代わりに店の外から不思議そうに異邦人を見ていた子どもたちが入ってきた。興味津々といった様子で僕を取り囲む。

それを見た店の主人はそさくさと子どもたちを追いやってしまった。

元から店にいた一人の少年と共にご飯を食べた。16歳だという彼は思春期の相克を目の奥に含んでいた。

日々の生活について尋ねると、堰を切ったように話を始めた。
「僕が持っているシャツはこの一枚さ。なぜ僕たちはこんな生活を余儀なくされるのか?」
時折、のぞかせる意志の強さが僕をドキリとさせた。彼の虹彩はどんな世界を映し続けるのだろうか?

食事を終えると、キンマを勧められた。キンマとは東南アジアの嗜好品である。町に出ると、キンマの屋台があるほど暮らしに根付いている。

キンマという植物の葉に石炭を塗って、砕いた木を挟んでいる。それを噛むと、独特の風味がする。

最初は「なんやこれ」と吐き出してしまったが、だんだんとクセになる。キンマを噛むと、葉が真っ赤になる。

唾も真っ赤である。東南アジアの路上で血点のようなモノが見られるが、それはキンマを噛んだ人が吐く唾なのである。

村には幾本もの細い路地がつたっていた。路地沿いに家々が立ち並ぶ。

こどもたちはやはり長期休暇中だからであろう。店先でたまったり、走り回って遊んでいたりする。

のどかな村だった。世界情勢の苦節の上にあることを忘れてしまうくらい。

「ロヒンギャの悲しみ ③」

https://dokushoplacecom.wordpress.com/2018/05/11/660/?preview=true

ロヒンギャの悲しみ①

地平線が見えるくらい、一本道が続いていた。汗が頬を伝い、バックが肩にくいこむ。

「本当にこの道で合っているのだろうか?」

ミャウーのホステルで書いてもらった地図によれば、この道沿いにロヒンギャの村があるはずだった

「仏教徒が人口の大半を占めるミャンマーで、イスラム教を信仰し、迫害されているロヒンギャという存在がある」

僕がロヒンギャについて知ったきっかけは日本での新聞報道だった。

「報道の向こう側にいきたい」

若い衝動に動かされてミャンマーまで来た。東南アジア5か国を回る2ヶ月の旅の最大の目的はロヒンギャに会うことだった。

バイクや車が横を通る度に顔を隠す。警察官に止められると面倒なことになるかもしれない。

前方に村が見えてきた。道路の両端にずらりと民家が並んでいる。村に足を踏み入れると、雑貨屋で溜まっていた子ども達が寄ってきた。

手元のカメラを見て「写真を撮れ」とジェスチャーで伝えてくる。

写真を撮ると「ついてこい」とばかりに僕の手を引いた。雑貨屋の店先に座る老婆が微笑ましげにその様子を見ていた。

ソンコ帽のようなものを被っている人を見た時にやっと気がついた。

「ここがロヒンギャの村だ」と。

中年男の前に連れてこられた。

「My teacherだ」と子どもが紹介してくれた。彼は村の教師で英語を話せるので、ガイドもしているという。名前は仮にTさんとしておく。

初めに村の学校を見せてくれた。残念ながら訪れた時期は長期休暇中で生徒はいなかった。

5歳から12歳までの子ども達が学んでいる。しかし、この村には高校などの上級学校がない。

「卒業したら生徒たちは町の学校に行くのか?」

そう尋ねると、Tさんは首を振った。

「僕たちはこの村から出ることができないんだ」

ロヒンギャの人々の行動はミャンマー政府によって、著しく制限されている。

一番近い町であるミャウーまでは10キロもないが、行くことは「不可能」である。小さな村で彼らは世界から隔離されている。教育を受けたくても、受けられない現実がある。

それだけではない。

「医療も足りないんだ」

そう彼は口にした。

薬局のようなところはあるが病院はない。行動が制限されているので、罹患しても満足な治療を受けることができない。

次にモスクへと連れていってくれた。村には見せてもらっただけで3ヶ所のモスクがあった。

14世紀からあるというモスク。台座にはコーランが置いてある

その中でも一番、古いモスクは700年前、すなわち14世紀に作られたという。一部の柱などを除いて、改築されているので真偽は判断できなかった。

ロヒンギャとミャンマー政府の対立の原因の1つに歴史認識という点がある。

「僕はこの村で生まれた。両親も、祖父母もずっとこの地で暮らしてきたんだ」とTさんは言った。

ラカイン州と呼ばれるミャンマー西北部の地域には15世紀から18世紀にかけて「アラカン王国」という独立国が存在した。ムスリムに融和的な王の元、仏教徒とムスリムが共存していたという。その後、ムスリム(ロヒンギャ)と仏教徒(ラカイン人)の間で軋轢が生じた。

アジア・太平洋戦争中には対立に乗じた日英の代理戦争が行われた。現代に至って、なお対立は顕在化している。

ミャンマー政府はロヒンギャを「不法移民」だとしている。ラカイン人(仏教徒)はロヒンギャをバングラデシュから来た人という意味で「バングラ」と呼んでいる。

ラカイン州に住むロヒンギャの数は100万人ほどと推定される。彼らは、移動の自由だけでなく、国籍さえ与えられていない。ロヒンギャはこの国において「ミャンマー国民」ですら無いのだ。

2017年8月の衝突以後、政府治安部隊の掃討作戦によってロヒンギャ側に多数の死者が発生した。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のHPによると、この迫害に耐えかねた67万人を越えるロヒンギャが故郷を離れ、バングラデシュへ逃れたという。

ただバングラデシュに逃れても安泰の生活があるわけではない。そこでも劣悪な環境下におかれている。ミャンマーへの帰還もほとんど進んでいない。

ため池のそばには赤十字が掲げられていた

モスクの隣にはため池があった。生活用水はこの池や点在している井戸からくまれている。

村全体の人口は6500人ほどだが、子どもの数はかなりのウエイトを占めている

写真を撮ると、駆け寄ってくる。手を出して何かをねだってくる。最初は「カメラをよこせ」ということかと思った。

違った。子どもたちは「写真をくれ」と言っているのだった。

「彼らは自分の写っている写真を持っていないのではないか」と思った。

日本で暮らす僕は実家に帰れば、幼少期を写したアルバムがある。僕には当然のように思えることさえ、外界から遮断されたこの村では当然ではないのだ。

ふと子どもたちの未来に思いを巡らせた。一生、この狭い村で暮らしていくのだろうか? いや情勢を鑑みると、現在の生活さえ奪われかねない。

「国籍を有しないということはいかような苦しみか」

バンコクで会ったカメラマンの瀬戸さんがそのことを教えてくれた。

https://dokushoplacecom.wordpress.com/2018/02/05/サワディ、タイランド-2/?preview=true

この子どもちも瀬戸さんのように「帰属意識」の欠落という苦しみを背負って生きていくのだろうか?

国籍問題が象徴する、ミャンマーにおけるロヒンギャの地位。価値観が万人で異なるにしても、常に生活が壊される危機にあることは「オカシイ」であろう。 「子どもたちが、どんな責任を有しているのか?」

どうしても僕にはこの既存の社会が理解できなかった。

僕のカメラはポラロイドではないので、すぐには現像できない。

「ゴメンね。現像したらきっと写真を送るよ」と誓った。きっと言葉の意味は理解出来ていないだろうが、子どもたちは了解してくれた。

「ねぇ僕たちも写真を撮ってよ」

子どもの笑顔は美しかった。純粋だった。だからこそ、ロヒンギャの置かれている現状について、釈然としない悲しみが残った。

「ロヒンギャの悲しみ ②」へ。

https://dokushoplacecom.wordpress.com/2018/05/06/222/?preview=true

2018年5月5日に更新予定です。

美しきミャウーの町

「地面が揺れている。地震だろうか」

それで目を覚ましたが、地震ではなかった。往来を通るトゥクトゥクの振動が、道路脇で眠る僕に地面を通じて、響いていたのだった。

「ヘッシュン、ヘクシュン」とくしゃみを6度、繰り返した。砂ぼこりが僕の身体中の気管を犯していた。

くしゃみをしている間に頭がハッキリとしてきた。昨日の夜中、僕はラカイン州北部の町・ミャウー(Mrauk U )に着いた。疲れ果てていた僕は、そのまま地面で寝てしまっていたのだった。

慌てて、身の回りを見る。

「荷物、盗まれてへんやろか」

大丈夫だった。まだ空は薄暗い。時計の短針は5時を示している。

「なんだ2時間しか寝ていなかったのか」

だんだんと往来に人が増えてきた。人々が奇妙なモノを見る目を投げてくる。立ち上がって、服の砂を払い、人々の列に付いていくと、市場があった。野菜や果物、川魚が並べられていた。

そこが町の中心なのだろう。

「小さな町なんだな」と思った。

ホステルの前に戻ると、シャッターが開いていた。昨日は結果的に宿泊予約を反故にしてしまったので、申し訳なく思っていた。

そのことを詫びて、場合によっては昨日の宿泊代を代償しようと思った。

そうして「今日こそはちゃんとしたホステルに泊まるのだ」とロビーに入った。小学生に見える少年がロビーを預かっていた。僕に気がつくと、奥に入り、ホステルのオーナーである父親を連れてきた。

「今日、泊まりたいのですが」

僕を一瞥してから、おっさんは威厳たかに言った。

「ウチは外国人を泊めないポリシーなので。どうぞお引き取りを」

「そんな……。昨日、予約していましたよ。それにほら」と僕はロビーの上の時計を示した。「Paris. New York…」と世界中の都市の時間が示されている。外国人向けのホステルでよく見るタイプの時計だ。ちゃんと「Tokyo」もある。

「ダメなものはダメだ。泊めない。帰れ」

そこまで言われて、宿泊するのも腹が立つ。他の宿を探すことにした。

朝が早すぎたこと、それから僕の服が砂だらけで汚かったことを嫌われたのだろう。

町中に出て、目についたホステルに片っ端から入るが、どこに行っても「Local people only 」と返ってくる。本当に「外国人お断り」のホステルもあるようだ。後に聞いた話では小さなホステルには外国人を泊めてはいけないそうだ。

警察から「外国人を泊めたのか」とお咎めを食らうこともあるらしい。

人に聞き回り、着いたホステルは一泊25000チャット(2000円ほど)だった。

「アカン。高すぎる」

ミャンマーのホステルはどうしてかくも高いのか?

やっとのことで一軒のホステルにたどり着いた。恰幅の良い、タンクトップを着たおじさんがオーナーだった。

「今日、泊まれますか?」と聞くと、人懐っこい、それだけで人柄の分かる笑顔で「OK」と言った。

部屋はシングルルームでシャワーやトイレも付いていた。値段は10000チャット(800円ほど)だった。試しに値下げを頼むと「実はいくらが相場か知らないんだ。いくらで泊まりたい?」と聞いてきた。

「それなら8000チャット(640円ほど)で」と言うと、その値段になった。

シャワーで砂を落とし、服を手洗いして干した。それからベッドで横になった。疲労がその代償に心地よい睡眠をくれた。

起きると日はすっかり高くなっていた。夜明け過ぎから眠ったので、およそ5時間、寝ていた。

明晰になってくる意識の中で、ほどよく体内に漂う倦怠感が僕に思考させた。

「ロヒンギャに会えるだろうか?もし会えたら、どんな風に接すればよいだろうか?」

僕がしようとしていることは、他人から見ると「ジャーナリスト気取りのバカな大学生の自己満足」である。

「軽薄な冒険心や、自分のヒロイズムを満たすために来たのではない」

またカンボジアなどで見た日本人のように「他人にたいして卑屈な、哀れみの目を向ける」

それだけはしたくなかった。僕は未熟である。ただ目の前の人を、あるフィルターを通すのではなく、自分の目で見て、話をしたいと思った。

ここからは危険を伴うコトもあるだろう。僕はこの国では当然ながら「外国人」である。海外において、警察は守ってくれる存在ではないのだとプノンペンで思い知らされた。

ことにミャンマーである。

「ランボー 最後の戦場」という映画がある。シルヴェスター・スタローン扮するランボーが、少数の傭兵を引き連れて、ミャンマー軍の一個中隊と戦うというハチャメチャなストーリーである。映画の中で、少数民族に対するミャンマー軍の暴虐無人ぶりが徹底して描かれている。もちろんアメリカ映画として脚色は加わっているのだろうが「火のないところに煙は立たない」

ロヒンギャ問題はミャンマー政府にとって、極めて不都合な部分である。ここからの行動は慎重を期する。

腹が減ったので、部屋を出た。ホステルのおじさんが「起きたのか。どこに行くんだい」という目を向けてきた。

「町でご飯を食べてくるよ」

ホステルの横の商店で買ったジャムパンを片手に町へ出た。外国人がいない静かな町だった。外国人が珍しいのだろう、屋台などでも興味を持って接しられた。

ミャウーは古都だった。かつて存在したアラカン王国の首都として、15世紀から300年以上、栄えたのだった。

バイクタクシーの運転手も「ここ(ラカイン)は1つの国だったんだよ」と言っていた。

ミャウーにはあちこちにパゴダ(仏塔)があった。夕暮れ時に小高い丘に登ると、パゴダが夕日に照らされて美しかった。「外国人観光客も居ない、こんな美しい町が残っていたのか」と感動した。

交通の便がよくなれば、観光客で溢れかえるのだろう。そうならないで欲しい。

ただ僕の主たる目的は観光ではない。ここからの旅はそれまでのモノとは違う意味を持ってくるだろう。

翌日に備えて、目一杯夕食を食べ、早めに寝た。

第22話 「ロヒンギャの悲しみ ①」

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北へ、北へ ②

あらすじ

ロヒンギャの村を目指す僕はひたすら北へと行く。道は荒れていて、バスも揺れる。ヤンゴンから1日かけて、海辺の町・ナポリに来ていた。

レストランのおじさんが予約してくれたバスは朝の11時に出るモノだった。思いの外、早くに起きてしまった僕は海辺を散歩して時間を潰した。一人の白人女性が砂浜にマットを敷いて、ヨガをしていた。その動きが面白かったので、マネをしていると怪訝な目を向けられた。

予定の11時になってもバスは来ない。バックパックを玄関前に置いて、子どもと遊んでいた。

子どもが頬につけているのは「タナカ」という化粧品だ。樹木をすりつぶして、水と合わせペースト状にしたものである。ミャンマーではどこでもタナカを見ることができる。女も男も年寄りも子どももタナカをつけている。日本人が連想する「田中」とどのような関係にあるかは知らない。

タナカは日焼け防止に効果があるそうだ。日本の淑女方もどうだろうか?

やっとのことでバスが来た。バスといってもこの日のそれは、20人くらい乗りの小型バスだった。

通路にもプラスチック椅子を並べて、限界まで乗客を乗せる。ぎゅうぎゅう詰めになったところをクーラーで冷やす。ちらし寿司になった気分である。

この日は平地を行くので、バスは揺れないと思っていたが、見事に裏切られた。

バスはほどなく「稲葉ジャンプ」を始めた。車酔いに苦しみながら幼時にテレビで見た、札幌ドームの景色が脳裏に映った。

休憩地点の度に草影に走った。現地の人も同じように苦しんでいた。胃薬代わりにコカコーラを飲んだ。

車酔いに加えて、座席も悪かった。座席下の燃料タンクが膝くらいまであったので、常に体育座りのような体勢を余儀なくされた。足は伸ばせず、たまに立とうとするのだが、天井が低いので頭をぶつける。

無理な体勢のせいで、積年の膝痛だけでなく、腰や首も痛む。この苦しみを紛らわせようと、下唇を噛んでいたら血が出た。

おまけに腹が痛くなってきた。バスが止まるのは4.5時間に一回である。こんな絶望的な気持ちになるのは、中学生の時に野球チームで真夏下に半日間、正座させられ続けた記憶以来である。

何を好き好んで、こんな辺鄙な所に来てしまったのか。しだいに日が暮れてくる。バスはまだまだ着かない。いつ着くのか皆目、見当がつかない。苦しみは続く。無の境地を目指すしかない。

「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、ありがたやありがたや」

そんなことを思っていると、本当にスピーカーから念仏が流れてきた。さすがは仏教国である。

道はいっそう細くなる。街灯もほとんど無いので、車のヘッドライトだけが頼りである。なんだかバスが左右に揺れている。運転手が半寝で運転をしているのだろうか。

そうなっても仕方がない。なんせこの運転手は15時間、ハンドルを握り続けているのだから。衣笠祥雄もおどろきの鉄人ぶりである。

夜中2時、いきなりバスが止まり、降ろされた。

「ミャウー(Mrauk U )に着いたぞ」

「ホンマかいな。こんなど田舎なんけ?」

他に降りる乗客はいない。バックパックと僕は道端に捨てられてしまった。

どうにか予約をしていたホステルの前に着いた。確かにそのホステルで合っているようだが、門は硬く閉められている。午前2時を過ぎていたので、まあ当然だろう。

「Excuse me 」と声が枯れるくらいまで叫び続けたが、門は開かない。

2階から煌々と光が漏れていて、赤ん坊がハイハイをしているのが見えた。ホステルのオーナーである両親は寝てしまったのだろう。

仕方がないので諦めて、道路脇に座り込んだ。しばらく本を読んでいたが、15時間のバス旅は相当、体にこたえていた。道路上であるが、寝袋を敷いて寝転んだ。隣の公園に野犬の集団がいた。その遠吠えに恐れを抱きながら、だんだんと意識が遠のいていくのを感じた。

第21話 「美しきミャウーの町」

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「北へ、北へ ①」

朝の光がヤンゴンの街を包んだ。往来にはTOYOTAの車が走り、椀を持った托鉢僧が長蛇の列を作った。

混沌とした東南アジアの、豊穣たる海のごときバイタリティーが朝の訪れと共にわいてきた。街を往く人々の喚声、道路脇に積み上げられた生ゴミからの臭気。脳天を突かれるような東南アジアの実感が疲労した身体に、新しい一日の始まりを告げた。

タクシーに向かって手を上げた。タクシーメーターは付いていなかったので運転手との値段交渉になる。

「10000チャット(800円ほど)だ」と運転手は言った。

「高いよ。6000(480円ほど)で行ってくれよ」

結局、8000チャット(640円ほど)で落ち着いた。このタクシーを逃すと、バスに乗り遅れるので僕が折れたのだ。

郊外のバスステーションへと続く道は早朝なので空いていた。40分ほどでステーションに着いた。

僕はミャンマー中部の海岸沿いにある町・ナパリまでのバスチケットを16000チャット(1280円ほど)で買っていた。

ナパリからさらに北部へのチケットは向こうに着いてから買おうと考えていた。

7時にバスはステーションを出た。僕の席は後部の右側、通路寄りだった。バスに持ち込んだ食パンを取り出した。一口、食べてその妙な味に違和感を覚えた。見てみるとパンにはカビが生えていた。

昨日、ストアで買ったばかりの賞味期限内のパンである。腹は減っているが、諦めるしかない。

バスは大型だったので、揺れないだろうと思っていた。出発してほどなく、その考えが誤りであると知った。

ミャンマーのバスは驚くほどに揺れる。一応、コンクリートに舗装されている所もあったが、道幅がバスの車輪より狭いのでバスが妙に傾いている。

乗客を酔わせないように冷房はマックスになっている。それでも酔う。カンボジアやラオスの酷道を経験した歴戦の勇士も真っ青である。揺りかごで揺らされる赤ん坊の時分に戻ってしまったような気分だ。シートから落ちないように必死に前の席をつかむ。

窓側の席に座る老人を見ると、平気な顔でナッツを食べていた。「老兵は死なず」である。

ただ現地の人は酔わないというわけではない。途中で少女が乗り込んできて、通路を隔てた隣の席に座った。

乗り込んできた時から不安な表情をしていたが、バスが動き出すとほどなく、備え付けのエチケット袋に「ぺっぺ」と唾を吐き出した。

僕はそれを見てすっかり酔ってしまった。次の休憩ポイントで草影に駆け込んだ。吐瀉物は酔い止め薬でブルーになっていた。

山に差し掛かると、バスの揺れは激しさを増した。天井に頭をぶつけるのではないかと思うほどに揺れる。山道は細く、険しい。バス一台でやっとの道である。他のバスとすれ違う時は大変だった。

「頼むから、滑落しないでくれよ」とミャンマーの神様に祈った。ミャンマーの、ど田舎のバス事故で邦人が死んでもニュースにすらならないだろう。

検問地点も何ヵ所かあった。警官がバス内を見回るだけのところもあれば、全員、降ろされる所もあった。ミャンマー人はICカードを携帯していて、それを一人一人、チェックされる。

外国人は僕一人なので、その度に別の所でチェックを受ける。

「Are you Chinese ?」

「残念、ヤパンだよ」

東南アジアでは中国人に間違われるコトが多い。それほど中国が身近で日本は遠い国なのか?あるいは単に僕が中国人に似ているのか?

州を越える時にも関所のような所があってチェックがかかる。ミャンマーは連邦国家であることもあって、州ごとの力が強い。

彼らは自身のコトを「ミャンマー人」とか「ビルマ人」というのではなく、しばしば「ラカイン人」といった風に州の名前をいう。

こんなところでも連邦国家と単一国家の違いが出て面白い。

夕方5時、バスはナポリに着いた。来て驚いた。そこはビーチのある観光地で西洋人がたくさんいたのである。

郊外には空港があって、飛行機で来るのだった。

ただ宿の値段もべらぼうに高い。とても僕が泊まれる値段の宿はない。レストランで安宿について尋ねると「俺の父親のホテルに泊まっていけ」と言われた。

付いていくと、それはホテルでも何でもなかった。まずベッドすらない。ただ畳の部屋にごろ寝である。もう他の宿を探す気力もない。

「なんぼで泊めてくれるの?」と聞くと、「10000チャット(800円ほど)で良いよ」と平然と言われた。

冗談じゃない。800円もあれば、他の国ならシングルルームか、上手くいくとダブルルームである。

切り崩しにかかるも、まったく値段は変わらない。

「どうせ一泊だ」と10000チャットを支払った。

ただ不思議なモノでそのおじさんは悪い人ではなかった。バスチケットを頼むと、あっさりミャウー(Mrauk U)までのそれを手配してくれた。

夕食を食べに出かけた。夕食後、あの部屋に帰っても仕方がないので、海で夜風にあたりに行った。

夜の海を見ながら、「遠くに来てしまったな」とふと思った。そうして、これから自分がロヒンギャの村に行こうとしているのだと強く実感した。にわかに恐ろしさで身体中が震えた。まだ引き返せると意識の上では認識した。だが僕はもう引き返せない。

第20話 「北へ北へ②」

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「寂寥感とバックパックを抱きしめて」

~あらすじ~

タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスと旅を続けて来た僕は再び、タイに戻った。タイ北部の美しい街・チェンマイで、ミャンマーへのビザ発給を待つのであった。

僕がミャンマービザを申請したのは木曜日だった。土日が休業日なので、週明けに発給されるだろうと考えていた。

ところが存外にも早く、金曜日の夜にビザが下りた。しばらくチェンマイで休む予定であったし、この街にまだ心残りもあったが日曜日に出発することにした。

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