カンボジアで自由を考えた

カンボジアは若者が多い。逆に老人は僕の目には異常に思える程、少ない。

カンボジアの人口分布(CIA THE WORLD FACTBOOK )より

実際に調べてみると、その人口分布の偏りが如実に感じられる。

背景にあるのはベトナム戦争とその後のポル・ポト派による虐殺である。1960年代後期から1970年代にかけて、カンボジアはベトナム戦争に巻き込まれた。アメリカ軍の爆撃などによって80万の命が失われた。

ベトナム戦争で疲弊し、内政が混乱していたカンボジアの中で急激に力を付け、内戦の勝利によって、政権を奪取したのがクメール・ルージュ(ポル・ポト派)であった。

1975年4月、首都・プノンペンを制圧したクメール・ルージュはカンボジアの国名を「民主カンプチア」に改めた。

都市部の住民は農村部への移住を強制的に命じられた。病人も老人も。例外は無かった。

空想的理想の元で計画経済体制が敷かれた。ただ、その非近代的な方法は失敗し、全土で餓死者が噴出した。

クメール・ルージュの唱える原始的共産主義にそぐわない資本主義や伝統的な宗教は否定された。機械は壊され、仏像は燃やされた。

彼らを批判することは許されなかった。クメール・ルージュは知識層を徹底的に殲滅した。メガネを掛けているだけで、インテリとみなされ殺害された。

弾圧はやがて拡大した。反抗的な態度を見せたり、少しでも疑わしいとされると強制収容所に連れていかれ処刑された。

クメール・ルージュが政権を握ってから、ベトナムの侵攻によって倒れるまでの4年間に失われた命は200万~300万と推定される。これは当時のカンボジア人口800万人の4分の1以上にあたる。

2月はカンボジアでは乾期に当たる。サンライトが照りつけ、麦畑が揺れる。日本の初夏のような天気の中、僕はプノンペン郊外の「キリングフィールド」に立っていた。

キリングフィールドに立つ追悼塔

キリングフィールド。このおぞましい名前の通り、ここは2万の首が落とされた処刑場であった。このようなキリングフィールドの跡地がカンボジア全土に300以上あるという。

ここに連れてこられる時、多くの人々は自分の運命を悟っていたであろう。そこにあったのは死の恐怖か、それとも拷問から解放され楽な世界に往ける喜びか。

処刑された人の残した服

銃弾を消費しないように処刑は斧などの農作器具を用いておこなわれた。死体は穴に投げ込まれた。

解放の後、この場所では450の死体が見つかった

断末魔の叫びが近隣の農村に聞こえないように、木につらされたスピーカーからはクメール・ルージュを讃える音楽が大音量で流された。

発掘された無数の死体
数えきれないほどの頭蓋骨

たったの40年前に、自分が立っている場所で大虐殺がおこなわれたのだ。それも同国人の手によって。想像力を働かせると恐怖が渦のように内臓を駆け巡る。事実はあまりにも恐ろしい。

目を開けると一匹の小鳥が青々と繁った木の是枝に止まっていた。口笛のように軽快な鳴き声で、怨恨の地を慰めていた。響けレクイエム。死して直、さまよえる魂を鎮めるように。僕の頬を静かに伝うのは汗だけではなかった。

どんなに優れた思想でも暴走すれば危険なモノになる。だからこそ必要なのは多様性ではないだろうか? 自由闊達な議論によって生み出される。

法学部生が「芦部憲法」と呼んでいる憲法の概説書がある。憲法第21条「表現の自由」の説明欄には、その存在理由が2つの言葉を用いて説明されている。曰く

1, 言論活動を通じて自己の人格を発展させる自己実現の価値

2, 言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという自己統治の価値

密閉された部屋には空気がこもる。窓を開けて、異なった意見にも耳を貸さなければならない。ただカンボジアでは自由が圧迫されていると感じる機会もあった。

ある晩、プノンペンの夜道を歩いていると、老人が話しかけてきた。フランス人だと名乗るその男は僕に2,5ドルを貸してくれと言った。

「財布とパスポートの入ったカバンをすられたんだ。警察に行くから金を貸してくれ」

僕はたいていアホであるが、その男の目付きが常人のそれとは違うことは分かった。

「良いよ。その代わり警察署まで付いていくよ」

「俺のコトが信用出来ないのか。分かった。ボスのところにいこう」

展開がよく分からないまま男に付いていくと、古いアパートに着いた。

「3分、待っててくれ」と男は言ってアパートの二階に走っていった。

階段に腰掛けて男を待っているとにわかに辺りが騒がしくなる。携帯電話に向けていた顔を上げると7,8人の警察官が僕を包囲していた。警察官の手には鋭利なナイフと手錠が握られていた。

状況が呑み込めずに困惑で半笑いを浮かべていると警察官が迫ってくる。関係ないということを手で示して階段を譲る。

階段を次々と警察官がかけあがる。僕も野次馬たちと一緒に攻勢を眺める。怒号の後に警察官が男たちの手をとって階段を下りてくる。その中にはきっちりと僕が2,5ドル貸した男もいた。わざわざ自分から行かなくても警察官がお迎えに来てくれたようだ。後から聞いた話ではドラックのだったそうだ。

その様子に対してシャッターを切っていると、一人の大柄な警察官が怒れる目で僕の腕からカメラを奪い取った。

「rob,rob,rob(押収、押収、押収)」

そうして僕の手を掴んで「警察署に来い」と言う。抵抗しようにも力が強い。亜脱臼していた左肩が痛む。

万事休すと思っていた刹那、地元のおじさんが「マイフレンドなんだ。許してやってくれ」と言って交渉してくれた。

そのおじさんのお陰で解放された。一緒にお酒を飲みながらおじさんは言った。

「ここは君の自由な国とは違うんだ。気を付けて行動しなくちゃいけないよ」

カンボジアの内政に関して外国人の僕はもちろん何も言えない。それでも悲劇のあった国で自由の大切さを改めて考えた。

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