頑張る―よ

一昨日の夜はほとんど眠られなかった。
人生初の野宿。心配していた虫の襲来を避けることができたが、夜中の冷え込みには辟易。無意識の内にカバン内のTシャツを三枚、着込んでいた。それでも寒く、震える体を丸めて30分も眠り続けることはできなかった。体を暖めるために夢遊病者のように世界遺産の集落を歩き回った。
空が白くなった。村全体が深い靄に包まれていた。原始の集落が突然にして目の前に現れた。教科書にある風景と目の前で一致した。ニュートラルを崩す圧倒的なまでの藁葺き屋根の存在感。アンバランスな中の心地よさ。
小窓から漏れる生活の臭い。実用の中の美しさ。

白川郷

 

白川郷を出て、金沢に向かった。昨日から続く山道。山肌を縫うように展開されていく道は自転車に無慈悲であった。いくつもの峠や嶺を越えていく。どんな場所にでも必ず人家が生活がある。不便さを覆す、自然の作り上げた風景。桃源郷のようにさえ思えてくる。

橋 白川村

 

積雪を防ぐために道路を覆うようにしてある洞門と呼ばれるトンネルが対岸から見ると、城壁のようである。木材を運ぶトラックに煽られながら狭い酷道を行く。下りでは速度が60キロを越す。ロードバイクの細いタイヤで急カーブを曲がりきれるか心配になる。
岐阜から富山に入ってしばらくしたところに一つの集落があった。そこも全て合掌作りで世界遺産にもなっていた。白川郷よりも観光地化されていなかった。自然なままに人々の生活と合掌作りが共存していた。そのことに強く胸を打たれた。

菅沼集落

農作業をする人の姿や家の横に無造作に置かれた三輪車。
ミンミンセミが泣きわめき、夏の陽が強く打ちつける。以後、私が夏を思うとき、真っ先に思うのはこの風景だろう。そう言えるくらいに「夏」という形容が似合う風景を他には知らなかった。
山岳地帯を越えると、富山の南砺市に入った。岐阜から200キロ、山中を走ってきたことになる。金沢まではおよそ40キロ。太陽はまだ南中高度に達していなかったので昼過ぎには金沢に着く予定だった。
自転車の空気はまだかなりあったが、ガソリンスタンドで空気を入れてもらうことにした。ガソリンスタンドの老人は快諾してくれた。
どうしても後輪に空気が入らなかった。それどころか空気は抜けてぺちゃんこになってしまった。
一番、近くの自転車屋まで二キロもあった。そこまで押していかなければならなかった。ガソリンスタンドから出たとき、山越えの疲労と睡眠不足が一気に来て、その場に座り込んでしまった。それでも何とか自転車屋に来たのだが、定休日だった。そのタイミングで昨夜、野宿で充電できていなかった携帯の電源が切れた。化粧品屋の前にいたおばさんに近くの自転車屋の場所を訪ねた。
「お兄ちゃん、どこから来たんよ」
そういう返事が返ってきた。「京都です」と答えると「学生か?」「どこを通ってきた?」など矢次早に質問をしてきた。
自転車の空気が無いことを伝えると、化粧品屋の中から店主を呼んでくれた。その人も中年の女性だった。持ってきてくれた空気入れでは空気が入らなかった。僕の自転車のバルブは仏式という特殊なもので普通のものでは入れることができないのだった。
「とりあえず入りんよ」
そう言って二人は化粧品屋の中に通してくれた。最初に話をした人は化粧品屋に配達をしていたタバコ屋さんだった。
携帯の充電が無いことを言うと、化粧品屋の女性はコンセントを貸してくれた。
「まだ充電できんじゃろ。ゆっくりしていき」
そう言って素麺をゆでてくれた。タバコ屋の女性は仕事があるからと出ていった。その際に「金沢に行くんやったら、明日なら泊めてあげるよ。美味しいもんも食べたいやろうに」と電話番号を書いた紙をくれた。あと、南部煎餅の袋をくれた。
結局、その化粧品屋で一時間半くらい、長居をさせてもらった。
礼を言って出るときに店主の女性は歌うように語尾を伸ばして「頑張るーよ」と言ってくれた。
案内してもらった自転車屋もシャッターが降りていた。しばらく店の前にいると、一人の老婦人が出てきた。
「自転車、見てもらえませんか?」
そう言うと、「もうウチは閉めてしまって」
定休日では無く、閉店していたのだった。
「誰も自転車に乗る人はいんのよ。商売にならんの」
老婦人はちからなく笑った。
それでも空気は入れてくれた。
「これからどこまで行くの?」
そう尋ねられた。
「分かりません。心の赴くままに」
「大変ね。暑さには気を付けて」
そう言ってから、最後にはやはり「頑張るーよ」と言った。
僕は再び自転車にまたがった。「頑張るーよ」と口ずさみながら。

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