「旅の終わりに」

「あーだから今夜だけは君を抱いていたい。あー明日の今頃は僕は汽車の中」

心の旅 チューリップ

2ヶ月の旅を終えて、バンコクを離れる日。市中心部から郊外にあるスワンナプーム国際空港まで繋がるBTSという高架鉄道の車内で僕はこの歌を口ずさんだ。旅は僕の掌から離れようとしていた。それでも今だけは旅情を抱きしめていたかった。

時刻は午後零時を廻ったころだった。AM2時に出る飛行機に乗るにはギリギリの時間になっていた。迫り来るTake Offの時間に焦りながらも心の片隅では乗れなければ良いなと思った。

正面の座席に座る、出勤前のキャビンアテンダントが怪訝そうに僕のことを見ていた。車窓に流れる、灯籠のようなバンコクの街並みを見つめる僕の目は充血していた。ただ僕の頬を濡らしていたのは何も旅愁のせいだけではなかった。

もう1つの理由を書く必要性と相当性を認めながらも、同時にもっとも大切な勇気を待ち合わせていない。今はまだその理由を書くだけに出来事は熟成していないし、僕の中でも上手く消化し切ることは出来ていない。

列車はスワンナプーム空港駅に到着した。列車を降りようとした所でお土産の紙袋を座席に忘れていることに気がついた。紙袋には1枚80バーツ(250円ほど)のタイパンツが7枚入っていた。帰国する日になって、バンコクの観光街であるカオサン通りで購入したものだった。

カオサン通りは旅の初めに訪れた時と、まったく変わらずに存在していた。大音量のポップミュージックを店内から流すダンススタジオやサソリなどのゲテモノを売る屋台。人混みの中から一筋の光がバンコクの空に上がった。スピンフォールという光る竹トンボのような玩具だった。スピンフォールはバンコクにもホイアンにも売っていた。メコンデルタのカントーまで一緒に旅をしていたY君はスピンフォールを欲しがっていたのに、手に入れる前に帰国してしまった。僕はY君のためにスピンフォールを2つ40バーツ(130円ほど)で購入した。

カオサン通りの雑踏で中国系の男にいきなり声をかけられた。

「Do you remember me ?」

どこかで見たような気もするが、男のことを思い出すことが出来ない。それでも僕は適当に「Yes,of course」と返事をしてしまった。しばらく話をした後に「Have a good trip」を交わして別れた。

別れた瞬間に男が、バンコクのホステルで同部屋だった中国人であったと思い出した。彼は4.5人の友人と一緒に旅をしていて、僕たちは夜遅くまで話をしてから記念写真を撮って別れたのだった。

慌てて振り返ったが彼の姿はすでに雑踏の中に消えていた。

カオサン通りからバスでホステルに帰り荷詰めをしているとMさんがやってきた。

「やあ元気かい。とうとう行くんだね」

「ええお世話になりました。日本に帰ってからもご連絡を差し上げてもよろしいでしょうか?」

後日談になるが、僕はまだ帰国後に1度もMさんに連絡をしていない。それはMさんがblogを読んでくれていると知っていたからである。

Mさんは地下鉄の駅まで見送りに来てくれた。そうして僕は空港に向かった。

飛行機は定刻を少し遅れて離陸した。離陸してしばらくすると隣席の老婆が寝息を漏らし始めた。まぶたを閉じてバンコクの寺で教わった瞑想をしている内に僕も眠りに落ちていた。

飛行機の経由地は韓国の大邱空港(テグ)だった。乗り継ぎ時間は7時間近くあったが、外は生憎の雨だったので、僕は2階の平たく並んだ椅子に座って北杜夫の「どくとるマンボウ途中下車」を読んでいた。

空港内のコンビニエンスで軽食を探していると女性店員が日本語で話しかけてきた。

「わたし、日本に7年間いたのです」

それから店員はコンビニの家賃が月に1200万円であることなどを教えてくれた。

「空港だから高いの。でもね、それ以上に儲かるの」

韓国から日本までの飛行路は二時間足らずのものだった。うたた寝をしている間に関西国際空港に着いてしまった。飛行機と空港を繋ぐパッセンジャーブリッジ(搭乗橋)の半ばで、足が止まってしまった。

「引き返したとしても飛行機には乗せてくれないし、旅を続けることも出来ない」

そう認識をしていても僕はその場で固まってしまった。

「いったいこの旅は僕にとってどんな意味を有していたのか?」

それはミャンマーを離れてから自分に投げ続けていた問いだった。この2ヶ月は19年の中で間違いなくもっとも濃厚で途方もない時間だった。だがそれを甘美な思い出だけでまとめるようなことはしたくなかった。

「この旅を契機に、僕はなにか生涯を左右するようなことを掴んだのだろうか?」

僕はこの問いの具体的なAnswerをまだ見つけていなかった。10分ほど立ち止まって、それからこういう考えが頭に浮かんだ。

「答えなど今は見つからなくても良い。過去を規定するのは現在の自分だ。僕のこれからの行動が、この旅を『ただの思い出』にもするし、『人生の分水嶺』にもするのだ」

僕は再び踵を返して空港に向かう道を歩み始めた。

「恐れずに生きていこう」

そう胸に抱きながら。

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「ぼくはいつも……」

僕は中学生の頃、授業中にいつも地図帳を広げていた。社会の授業中はもちろん、国語や数学の時も机に伏してパラパラと地図帳をめくっていた。裏面に「国土地理院」とカクカク印字されている地図帳を青の装飾が薄れるくらいまで読み込んでいた。(そのわりに地理の成績は思わしくなかったが)
地図帳を読んでいる内に、だんだん教師の声が遠のいていって心が浮遊していく感覚がたまらなく好きだった。
乳牛の印が付いた十勝平野やベルリンの街の詳細地図。お気に入りはアフリカ大陸北部のサハラ砂漠のページだった。このページには砂漠以外に何もなくて、だからこそ星の王子さまがいるような気さえした。
僕はまだ見ぬ世界に憧れていた。

一方で中学生の僕の精神世界はかなり抑圧されていた。僕は当時、隣市の野球チームに入っていた。監督はなんだか厳しくて練習は週6日もあった。まとまった休みは正月の3日間だけだった。

僕はこの一向に上達しない球技にウンザリとしていた。だいたい嫌いだった。(なぜか高校まで続けるのだが)

監督は選手に1日千本の素振りを命じた。僕はこの義務をエスケープ出来るくらいの勇気を持ち合わせていなかった。やってみると分かるが千本の素振りは退屈で苦役だ。2時間も3時間もバットを振りながら僕は分かっていた。
「こんなコトが人生の役には立たない」と。

僕は野球に向いていなかった。それでもなぜか長いこと野球を続けていた。どれだけ悪い状況であれ、人は継続性が担保されているうちは妙に安心してしまう。たぶん……

野球で卑屈になったこころは、他のすべての事柄に対しても少年を卑屈にさせた。いたいけなこころは屈服させられ、そんなこころを理解してくれる人はいなかった。依存できる人もいなくて、ただ夜な夜な枕を濡らしていた。僕はただ全てにおいて「普通」になりたかった。

中2の冬、食べたものをもどすようになった。14歳のこころのキャパシティを超えていたのだと思う。

中学生の僕にとって重松清の小説やBEATLESの音楽、そして地図帳はこころを解放してくれる処方箋だった。

高校野球を引退した後、周りの友人は目標を失って茫然としていた。その中で僕は思った。
「やっと自分の人生が始まるのだ」

大学に入った後は好きなように行動してきた。自転車で2300キロの旅をしたり、東南アジアを陸路で回る旅をしたりと。

今でも週一で野球の夢を見る。たいがい守備でミスをする夢だった。起きて夢だと気がついた後、タオルケットで汗を拭いながら「もう自由になれたんだよ」とこころに言う。
やはり人はある程度、こころに風を通さなければしんどいだろう。

バンコクに戻った僕はMさんと再会した。
Mさんが何をしている人なのか僕は知らない。ただ間違いなく旅中で一番、影響を受けた人だった。旅の出発地であるバンコクを離れてからもMさんは、メールをくれた。時には厳しい言葉が返ってきた。でもそこにはそれ以上の愛情がこもっていた。
Mさんはいたいけで遊動的な青年の危うさを危惧してくれていた。交わしたメールの数は50通を超えていた。
僕は今まで自分の気持ちを全力投球できる大人を知らなかった。Mさんは若者の未熟な気持ちを受け入れてくれた。そうしてより強い返球を返してくれた。
そんな大人に出会えた幸運を僕は感謝している。

2人が話したコトは僕の心に留めておくべきで、ここに書くことは信義に反する。それでもいくつかの事柄をここに記して旅中の心情を述べたい。

2か月の旅で経験したことを僕はMさんに話した。
「僕はまだ未熟で知識も経験もありません。そのことをロヒンギャの村で痛感しました。だけどいつか、ロヒンギャ問題の解決の一助になれるようなことがしたいです」

Mさんは笑顔で相槌を打ちながら、僕の話を聞いてくれた。その後、おだやかであるがピシャリと言った。
「遠くのコトを考えることも良いかもしれない。けれど日本国内にだって、いや君の身近なところにだって考えるべき問題はたくさんあるだろう」
「でも」と僕は反論しようとして出来なかった。たしかに僕はそのような視点を欠いていた。気づこうとしないだけで、見つめようとしないだけで、身近にも問題は山積している。人間が抱く困難の萌芽をきっちりと見つめなければと反省させられた。

それからMさんはこうも言った。
「問題に気づくことが出来たのは良かったかもしれない。ただそれは容易で、誰にでも出来ることだ。大切なことは問題をいかに解決するかではないかな」
観念では現状を動かすことはできない。具体的に何かをすることが大切である。現状を変えることができなければ、いかに理想的なことを語ってもそれは嘘で自慰にすぎない。

僕はロヒンギャについてブログで書き、それを多くの人に知ってもらうことが大切だと思った。だけどブログを読む人は少数である。
否、もし多くの人がロヒンギャの苦境について知ったところで現状は変わるのだろうか?
長期的に考えると報道は世論を巻き込んで、問題の解決に向けた流れを作ることはできるかもしれない。
ただ短期的な問題として平和な日本に住む人々がロヒンギャのことを知ったとして、はたして関心を抱くのだろうか?
そうであるならば報道という間接手段よりも、NPO活動などの直接手段の方が良いのではないだろうか?
このことがMさんとの会話から現在まで考えていることである。
「僕はどうするべきなのだろう?」そうして「僕に何ができるだろうか?」

若者は純粋であると思う。他人の反応をあまり気にせずに突き進んでいくことができる。純粋であるということは世間を知らないということとイコールなのかもしれない。純粋であるからこそ僕は誰も読まないブログを書き続けることができた。(現在、書いていることもどうせ読まれないのだが)
ただそれではいけないのだとも痛感させられた。それではどうにもならないのだと。

社会は人の連帯で成り立っている。そうであるならば必然として他人の反応を考えなければならない。
僕は空想的社会主義者でも哲学者でもない。現状を変えたいのならば、シビアな現実主義者にならなければならない。リアクションがなければ行為は意味を有しないのだ。
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない。世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
「金閣寺」 三島由紀夫

そして旅の出発地へ

「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」

【若者のすべて フジファブリック 作詞・作曲 志村 正彦】

旅の中で何度も聴く曲がある。若者のすべてはそんな曲の1つになった。日に何度も飽きることなく聴いていた。旅を終えてからも時折、この曲を聴いては旅を思い出してしまう。

匂いから潜在的な記憶を想起することを著名な小説に由来して、プルースト効果と呼ぶそうだが、音で記憶を辿ることは何と言うのだろう。

若者のすべてを聴く度に、僕はプノンペンの生暖かい空気や、メコンデルタの生命力溢れる森林を現に目の前にあるかのように思い出すことができる。氷の溶けたカルピスのように旅の記憶が薄まってしまう前に僕は喚起をもよおす原液をグラスに注がなければならない。

共にロヒンギャの村をまわったR君とヤンゴンで再会した。僕よりも一足先に彼はヤンゴンに航空機で戻ってきていた。

R君はヤンゴンから直接、日本に帰国する。僕は一度、バンコクに寄ってから帰国する。

別れの前日は食事をした後にコンビニでそれぞれ瓶ビールを買い、独立広場の芝生に座り込んだ。

昼間の独立広場

近くでは野外音楽フェスティバルが催されていた。洋楽にミャンマー語の歌詞を付けているのだろうか、不調和な曲が演奏されていた。それでも若者は大いに盛り上がって、ヤンゴンの夜を揺らしていた。
酒を半分ほど飲んだところでR君が言った。
「今日のビールはなんだか不味いね」
確かに硫黄のような変な風味だけが鼻について、とても飲み切れるモノではなかった。
「旅の終わりという心的要因に起因するのかな? それとも本当にまずいのかな?」
結局、僕たちは半分ほど残ったビールをグレーチング(道路排水溝)から地球の底に流した。
R君とは日本での再会を誓い合って手を振った。

翌昼、僕はヤンゴンからタイの首都でバンコクに飛んだ。バスや列車を用いても良かったのだが、陸路では丸一日、かかってしまう。空路では2時間でバンコクに着く。
値段で言うと陸路では4000円。空路では6000円と大差なかった。
ヤンゴン国際空港は小さな空港であったのでその分、搭乗手続きも容易に終えた。
同便にはお坊さんの集団が乗っていた。待合室では空港職員の一人一人がお坊さんの前でひざまずいた。その様子は崇高というか、不思議な感慨をもよおすものがあった。仏教国にある文化的一面よりは、仏教の加護に依る人々の妄信的な姿に胸を打つ純真さを感じた。

2時間のフライトの後に飛行機はバンコクのドンムアン空港に着いた。ドンムアン空港は2ヶ月前に東南アジアをまわる旅を始めた地である。ただ空港に降り立った時の心境は2ヶ月前と今ではずいぶん異なっていた。
前回は困惑と驚きを感じていたが、現在の心境は安寧だった。雨季が近づき、空気の中にも若干の水滴を含んでいるように思える。そのシットリとした感じが、すなわち僕の心を表していた。

旅の初めに泊まった宿へと戻ってきた。悲しいかな、ホテルのスタッフは僕のコトを忘却していた。

前回と同じドミトリーの部屋をあてがわれた。2段ベットの上段に横になる。

「あぁこの感覚だ」と僕は息を漏らした。窓外では、さっき降り始めた雨が本降りになっていた。水滴が窓を打ちつけた。それは春の雨というよりもスコールに近かった。

バンコクの夜に降るスコール

1つの季節が終わることを如実に感じさせる雨だった。

ビルマの竪琴の風景 Ⅱ

~あらすじ~
ミャンマー・ラカイン州の州都であるシットウェからヤンゴンを目指す。23時間でヤンゴンに着く予定だが果たして

鬱蒼とした密林へ、日がだんだんと傾き始める。窓ガラスというフィルターを通してなお鮮やかな陽光が最後の力を振り絞るように、発光する。

僕の乗ったバスは山間地を走っていた。道幅は狭く、道路状況も悪い。2台のバスがすれ違おうものなら、1台は山肌ギリギリまで寄らなければならない。日が落ちきる前に、この危険な道を通り抜けようとバスはますますエンジン音を高める。
山道の中腹でバスが突然、止まった。ぞろぞろと降りる乗客に続いて、僕もバスを降りた。
「変なところで休憩だな」
林に向かって立ち小便をしていると、20歳くらいの青年が流暢な英語で話しかけてきた。
「中国人かい?」
彼はミャウーでガイドをしていて、ヤンゴンに暮らす兄姉を尋ねにいくのだという。髭が薄いこともあって、20歳くらいに見えたが、実際には27歳だった。

「この休憩はいつまでなの?」と僕は尋ねた。
「バスが直るまでだね。エンジンがダメになっちゃったらしいよ」
僕は驚愕して聞いて、彼の言葉を反芻した。
「心配しなくて良いよ。ミャンマーではよくあることだから」
彼は笑顔で言った。そういわれると山中でのバス故障くらい大したことでは無いように思える。

3,4人の男がエンジンに水をかけたり、機械部分をいじったりしている。乗客は悠長に、その様を見つめている。
2時間の後にエンジンは再び、ゆっくりと動き出した。街灯一つない、夜の闇をバスは突き破っていく。乗客の大半は眠って、バス内は静寂が支配している。バスが土道を駆けていく音だけが単調に響いている。

翌朝8時にバスはヤンゴン郊外のバスステーションに着いた。僕は、休憩の時に知り合った彼と共にタクシーを雇って街中に向かった。

信号待ちの時に日本語のこんな音声が聞こえた。
「左へ曲がります。ご注意ください」
日本製のバスがヤンゴンの街で走っている。
大使館通りのすぐ近くに彼の兄姉の家があった。集合住宅のような所で、壁面は灰色にくすんで廃墟のような佇まいを見せた。

彼が窓を開けて、笑顔で遠くに向かって叫んだ。視線の先には、彼の姉の笑顔で手を振る姿があった。
僕は二週間前に泊まったホステルへと戻ってきた。

オーナーに「Do you remember me?」と聞くと、「Of course」と彼は言って、ハグをした。
「本当に良かった。生きて帰ってきたんだね」
前回、泊まったドミトリーに再び、割り振られた。二週間前にいた放浪者風の青年がまだ宿泊していた。
「お前、まだいたの?」
古めいたホステルに故郷に帰ったような気持ちを感じた。バスの疲れを癒やすように、僕は安心感を抱いて長い眠りについた。

「ビルマの竪琴」の風景 Ⅰ

「おまえはかえれ。おまえは踵をもとへもどせ。おまえはここにくるまでのあいだに見たもののことを、もっとよく考えよ」
[ビルマの竪琴 竹山道雄 新潮文庫 P180]

「旅を終える」と決めた僕は、その日のうちにヤンゴンまでのバスチケットを購入し、翌朝のバスでシットヴェを発った。予定ではヤンゴンまで23時間かかる。
「バスの中でゆっくりと旅の総括をしよう」

総括。旅の終わりが必然のものと決まると、やはり去りがたかった。
「旅で見たもの、感じたことを決して忘れないように心に刻もう」

もうすぐ極東の経済大国に帰る。10日後には大学2回生の春学期が始まる。せわしない日常の中で、旅中に感じたことは否応にも風化されていくだろう。それでも時折、この旅を感傷と共に思い出すだろう。

僕はもうロヒンギャ問題を他人事と考えることはできない。ロヒンギャの村で受けた親切、友達になった人々。ロヒンギャの現状を目の当たりにしながら、のうのうと安全な日本に帰るのだ。卑怯なのかもしれない。

ただロヒンギャの村では、自分が力不足であるということも痛感させられた。語学力、宗教的知識、事象への観察力。全てにおいて僕の能力は不足していた。僕がブログでロヒンギャについて書いても、読んでくれるのはほとんど友人で、反響もない。現状を変えることはできない。
「もう一度、力をつけて戻ってこよう」

バスはスリーピングシートですらない。地獄みたいな行路だった。退屈しのぎにスクリーンに映されている映画を見る。

それはアジア・太平洋戦争を描いた抗日映画だった。日本兵(ミャンマー人が演じているのだが)がミャンマー人によって追い出される。

乗客(僕以外は全員、ミャンマー人である)はみんな真剣にスクリーンに見入っている。日本兵がコケにされると乗客は喜ぶ。こんなアウェイな状況はない 笑
日本人はほとんどミャンマーを侵略した歴史に頓着しない。(侵略というと怒る人もいるだろうけど)
一方でミャンマー人の心にはこの歴史が深く残っているのだ。

ミャンマーは大戦中の激戦地の一つであった。日本は開戦直後に英国を奇襲し、ラングーン(ヤンゴン)を陥落させた。ただ大戦末期には、連合国の補給路を断つことを目的とした「インパール作戦」に失敗し、結果としてミャンマーでは18万人の日本兵が命を落としたといわれている。

戦後に発表され、児童文学の傑作といわれる「ビルマの堅琴」には水島という兵隊が出てくる。彼はビルマ(ミャンマー)で終戦後、捕虜になるのだが、日本兵の遺骨が散在しているのを見て、慰霊に人生を捧げるために僧侶としてミャンマーで生きていくことを決める。
現在でもミャンマーには多くの遺骨が祖国に帰ることができずに残っているのだろう。先日、フィリピンでは8年ぶりに遺骨収集事業が再開されることが決まった。

アジア中に屍を残した戦争とはいったい何だったのだろう?

「I am a just poor boy」

ミャンマー西北部、ラカイン州の州都・シットウェから北に100キロ。バングラデシュとの国境にほど近い場所にロヒンギャ問題最大の争いが起こったマウンドーがあった。

シットウェからマウンドーへと続く道は固く閉ざされている。国際機関の職員を除いて、外国人が入ることは出来ない。

ここを見なければ、ロヒンギャ問題の実際を知ることは出来ないと思った。

ある朝、僕は決心して重い腰を上げた。バックパックから必要な荷物を抽出した。(カメラ、ノートブック、寝袋、少々の食糧、水等)

”南京虫ホステル”のロビーではオーナーである年老いた小男がテレビを見ていた。この男の頬には人生の辛苦を刻み込んだように、平行に皺が寄っている。男は一日の大体の時間をテレビの前で過ごしていた。見ているのはいつも「世界の格闘技」かなんかのアメリカ番組であった。K―1やキックボクシング、”相撲”も放映されていた。

「今日、チェックアウトします。カバンだけ数日間、置いていっても良いですか?」

「Yes」 を予期した質問だった。毎晩のようにロビーで一緒にテレビを見ていたので、なんとなく打ち解けたような気がしていた。小男から出た言葉は意外に思えた。

「ダメだ。そんなコトはやっていない」
「なんで? ここには長く泊まっているので信頼できるでしょう。ホテルの隅でも良いから置かせてください」
「ダメだ。」
意外なまでに強硬な態度だった。開いていると思っていた扉は、実は閉まっていた。
(なんでやねん。どこでも置けるところあるやんけ)

ホステルを出た。シャットアウトされたことがショックで、少し腹も立ってきた。そうすると南京虫を我慢したことや、現地人よりも高い宿泊料をせしめられていたことも思い出されてきた。溜飲を下げるために、ホステルの近くの行きつけになっていたジュース屋に入った。いつもの如く、この日もアボカドジュースを注文した。
出てきたアボカドジュースは熟れていなかったのか、青臭かった。熟れたアボカドのジュースは旨いのだが……

このジュース屋のおじさんは親切で、グラスの底が空になって、なお粘っていても頓着されなかった。外国人である僕とは言語上の隔たりがあるが、目が合うと微笑む。
ミャンマー人の特徴なのだろうか、我慢強くて実直そうな人がこの国には多かった。仏教徒であることも関係しているのだろう。
「カバン置かせてもらえないですか?」
ダメもとで頼んでみるとあっさり「良いよ。置いていきなさい」と柔和な笑顔を見せた。

AM9時。町の商店や飲食店のシャッターが上がる。僕はバイクを借りるためにレンタルショップを探し歩いた。レンタサイクルの店は多くあるのだが、バイクとなるとほとんどない。人を伝って、個人のバイクタクシーの運転手を紹介された。
「バイクを貸してもらえませんか?」
「どこまで行きたいんだ。乗せていってあげるよ」
「いえ、バイクをお借りしたいのです。僕が運転していきます」
もしマウンドーに行くことが出来れば数日間は滞在することになる。フレキシブルな行動のためには自分で運転していきたかった。運転手は考えるように黙り込んだあと、僕に尋ねた。
「ところで君はどこへ行きたいんだ?」
「マウンドーです」
そう言うと、運転手と周りの同業者が顔を見合わせて笑った。首を横に振りながらフレミングの法則をこめかみにあてた。
「君が死ぬと、僕のバイクは帰ってこないじゃないか」

他を当たってみたが、バイクを貸してくれるという人はいなかった。ある場所では中国人のところに連れて行かれた。僕のことを中国人だと思って、同胞に説得させようとしたらしい。なんと言っているのかは全く分からなかった。かくして僕はバイクによるマウンドー行きを諦めさせられた。

シットウェからマウンドーまではバスも出ていない。僕に残された「The Last Resort」は船だった。シットウェからブティダウンという町まで定期船が出ている。ブティダウンからマウンドーまではおよそ10キロ。そこまで行けばどうにかなるかもしれない。船の出港日は翌朝だった。
早速、僕は船のチケットを取りに町中にある船会社のオフィスを訪れた。
「ブティダウンまで行くチケットをください」
従業員は困惑の表情を浮かべてから言った。
「”Permission”はありますか?」
持っていなかった。外国人はやはり許可なしではシットウェよりも先に行けないのだ。

教えられた”Immigrattion Office”は郊外にあった。日本の田舎の小学校を思わせる建物に入ると、制服を着た審査官が気だるそう書類の山に目を通していた。大型ファンの扇風機がガタガタと震えていた。

「マウンドーに行くために許可を貰いに来ました」
僕が提示したパスポートとビザを奪うように手にとって、目を通した。
「NO」
これだけだった。一瞬にして突き返された。万策尽きる。

再び町に戻った。虚脱感が押し寄せてきて、路傍の石段に座り込んだ。打ちのめされた気がした。悔しかった。マウンドーに行けなかったことに対してではなかった。自分がしだいに断られることを予期して、「NO」を待っていたことに気づいたからだった。こんなにも近くに来て、なお怖かったのだ。自分が危険にさらされることが。
この旅は自分にとって試金石のようなものだった。そういう方向で生きていくためには、一線を超える勇気がいるだろう。自分の無鉄砲さも結局のところ、安全を担保された上でのものでしかなかった。
バンコクで会った日本人のMさんが教えてくれた「The Boxer」という言葉に象徴的な一文があった。
「I am just poor boy」
僕はPoor boy だった。自分の力とは結局のところ、そんなものだったのだ。打ちのめされて、頬には涙が流れた。喧騒とした町の中で僕だけがContrastの側にいた。
「The Boxer」が頭の中で流れた。

「旅を終わらせよう」
そう僕は決めた。

シットウェのロヒンギャ③

ロヒンギャの地域に挟まれるようにシットウェ大学があった。ムスリム地域を海に例えるならば、孤島のようにそびえ立っている。

日本の大学と変わらない、華やかなキャンパスライフが、東南アジア最大の人道危機に隣して存在していた。ただロヒンギャは大学で学ぶことはできない。

シットウェ大学に通う20歳の学生にそのことを尋ねた。

「ロヒンギャと一緒には学ばないの?」

彼の答えはこうだった。

「ロヒンギャは危険だから。仕方ないと思うよ」

嘆息しか出なかった。現状は厳しいのだ。仏教徒とロヒンギャの間には精神的にも懸隔があった。憎悪と危険意識がベルリンの壁のように高く。

かつてはロヒンギャも仏教徒も同じ学舎で学んでいた。ロヒンギャの村で会った40過ぎの男性は、大学在学中に学校を追い出されたという。

東西へと続く道をさらに進むと、10mほどの幅の川があった。訪れた時は乾季だったので、ほとんど水量はなかった。

橋は工事中だったので迂回して、速成の橋を使わなければならなかった。

「Made in Japan 」と、荷車を引く男が工事中の橋を指差して言った。日本のNGO が橋を作っているということなのだろうか?

真偽はわからないが、完成すれば雨季の豪雨にも流されない立派な橋になるだろう。

橋を渡った先にはロヒンギャの大きな町があった。マーケットまであって、そこには宝石店や飲食店が並んでいる。

報道のいう人口12万人は大袈裟だと思っていたが、この分では本当にそれ位の人が住んでいるのかもしれない。

マーケットを歩いていると後方から怒号を浴びせられた。言葉は理解出来ないが「出ていけ」という意味なのだと推測する。

声の方向を見ると、怒号を放った男の顔があった。僕と目が合うと男は途端に表情を和らげて言った。

「Sorry, you are foreigner 」

男は肌の色が薄い僕を仏教徒だと思ったのかもしれない。

道を歩いていると商店を営む1人の男性に呼び止められた。

「ジャーナリストか?」

「いいや。日本の学生だ」

「ちょっと休憩していけよ」と言って家の中に歓待してくれた。

それから男は「腹が減っていないか?」と、パンやソーダー水を出してくれた。

「なぜ、こんなにもてなしてくれるのだろう?」

怪訝に思っていると、男性は堰を切ったように話を始めた。政府によって弾圧され、苦しい生活を強いられていること。衝突で死んだ人のこと。

「昔は仏教徒もムスリムも一緒に暮らしていたんだ。なぜ、僕たちはいがみ合わなければならないんだ」

彼は「Why」を繰り返した。人間の争いやこの世の不幸の根源に彼は「Why」を投げているのだろう。

「日本人に僕たちの現状を伝えてくれ。日本政府がミャンマー政府にプレッシャーをかけてほしい」

「それは理想だけれど……」

ただの学生である僕にそんな力などない。目の前の男性が熱心に語れば語るほど、僕は自分の存在の矮小さに赤面する。

店を出てさらに奥へと進む。土埃の立つグラウンドでは子どもたちがサッカーボールを追いかけていた。

夕暮れが迫っている。夜になる前には帰らないといけない。ここで断念して帰ることにした。

帰り際、夜闇に紛れてミャンマー警察の施設を撮っているところを、見つかった。

「止まれ」という意味のことを叫んでいる。

逃げて発砲されるのは恐ろしいので、大人しく警告に従う。僕を囲んだ4人の警察官はいずれと若かった。

「カメラを見せろ」と半分、英語。半分、ミャンマー語で言ってくる。

「分からない。英語で言ってくれ」と強気で出てみる。5分ほど拒み続けていると、諦めたのか「行け」と追い払われた。

翌日、もう一度、ロヒンギャの地域へ入ろうとした。前日と同じように、検問所を自転車で渡ろうとすると、止められた。

「ここは入れない地域だ」

ロヒンギャ地域は再び「Restricted Area」になってしまった。

シットウェのロヒンギャ②

ラカイン州の州都・シットウェの郊外にロヒンギャの地域があるという。報道によると、2012年以降12万人が暮らしている。

町中でその場所について、尋ね歩いた。

携帯ショップで女性店員に案内を請うた。

「ロヒンギャの村はどこにあるのですか?」

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生まれ出づる苦しみ

ミャウーでは3日間過ごした。パゴダ(仏塔)が立ち並ぶ美しい古都に後ろ髪を引かれるような気持ちもあったが、次の目的地・シットウェへと向かうことにした。

ラカイン州の州都・シットウェ。この町には12万人のロヒンギャがいると報道されていた。

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